テイセン版ちょっとためになる話

一外交官の見た明治維新

一外交官の見た明治維新 (日本で初めて使われた消防ホース)
防災統括部 桝谷 徹

明治維新の動乱期、英国の外交官アーネスト・サトウは幕府、長州、薩摩、朝廷との間で交わす漢文調の条約案や覚書を英訳できる日本語力で、外交官として大いに活躍したことをご存じの方も多いと思います。またその著書は多く、現在でも広く読まれています。

その中の一冊「一外交官の見た明治維新」は、サトウが実際に会った、江戸末期の賢侯といわれた殿様たちの人となりや明治の元勲たちの若かりしころの七面六臂の活躍ぶりがうかがえる興味ある回想記です。

本の内容は、尊皇・攘夷・佐幕・開国の主義・思想が入り乱れる中、合理主義の別世界から来た二十歳を過ぎたばかりの青年外交官の冷静な目と達者な日本語で交わす諸侯や志士達との会話によって得られる日本への深い理解は、幕府への援助で外交的優位を計ろうとするフランスや中立的立場で事態を傍観するアメリカに比べて、英国に正確な情報をもたらし、英国が対日外交を優位に進めていく様子が描かれています。

なおサトウはもちろん日系人ではありません。「私の名前は、日本人のありふれた名字と同じなので、他から他へと容易につたわり、一面識もない人々の口にまで上った。」というほどこの名前でサトウは得をしました。サトウとはSatowと綴ります。

さて幕末の歴史はさておき、読み進むうちに維新期の英国の日本における足場であった横浜の英国公使館が大火に見舞われるくだりがあります。

この火災は慶応二年十月二十日(一八六六年十一月二六日)に発生し、外国人居留地を含めて横浜の市街地の三分の二を焼き尽くす大火となりました。
以下に原文に沿って火災の様子を見ることにしましょう。

「横浜に未曾有の大火があった。半鐘が朝の九時ごろなりはじめた。・・・
いつも相当の人出で混雑している往来は、今や群集で全く身動きできないありさま。興奮しきった人々は、身近に迫った猛火の中からやっと持ち出した家財道具をかつぎながら、狭い通りの下手の端からなだれをうって押し寄せてきた。・・・

居留地の背後の空地へ出ると、ここでも、ごった返しの、すさまじい光景が現出していた。日本人町の一番火勢の激しい場所は、周囲が泥沼でかこまれている小さい島であった。木の橋一つで横浜の他の町につながっているのだが、その橋はもう避難民でいっぱいで、歩いても、泳いでも、安全な場所へ渡ることはできなかった。・・・

この地区の住民の大部分は女であった。私はその中の数人が哀れにも水中に飛び込んで、逃げようとするのを見たが、その人々はこちらの岸までたどりつくことができなかった。火炎は土堤道の家々の屋根に向かって突進し、まだ充分に燃えあがっていない場所のあちこちへ火を噴きつけるのは、見るも恐ろしい光景であった。・・・

火勢の進行方向に当った家屋を打ちこわすという破壊消防も行われたが、これも大した効果はなかった。破壊した場所へ火が来なかったり、破壊物の取り片づけができなかったため、かえって向かいの建物へ燃え移るのを助けたりしたに過ぎなかったからだ。」 手の施しようのない火災の様子と炎に追われ逃げ惑う人々の姿が浮かびます。

この大火について、横浜市の資料では、以下のように火元と被災地区が明らかになっています。

現在の横浜

現在の横浜 (クリックして拡大)

「午前八時末広町の豚肉営業鉄五郎宅から出火して港崎町・坂下町・太田町・弁天通・南仲通・本町・北仲通・海岸まですべて4丁目以東・外国人居留地まで及んで午後十時にようやく鎮火した。この火事で運上所・改所・官舎・船製所などがことごとく焼け当時の関内の大半を焼失した。この火事を豚屋火事という。」

当時の横浜の地図に被災地区を重ね合わせると、右の図のように市街地の三分の二の面積に及ぶことが分かります。

元治元年の横浜

元治元年の横浜 (クリックして拡大)

元治元年(一八六四年)版の地図は、横浜の大火の二年前のもので、サトウの記述とよく一致します。また現在の地図と当時の地図を比べると、横浜スタジアムのある横浜公園や現在の中華街などはよく原形をとどめた区画が残っています。「周囲が泥沼にかこまれた小さな島、木の橋一つで横浜のほかの町とつながっている」遊郭では四百人以上の遊女が亡くなったといわれています。

さて、私が一番興味を持ったのは以下の文章です。

「風はおさまったが、焼け残った物が無事かどうかと、人々は大変心配していた。ホースが破損したので、消防ポンプはどれも役に立たなくなり、くすぶり続けている余燼をなんともすることができなかったのである。そこで、自然にまかせたので、火の気が全くなくなるまでに四日間もかかった。」

私は仕事柄、消防ホースやポンプがいつ頃、日本へ導入され、使用されたか、かねがね大いに興味のあるところでしたから、探していたものが見つかった思いがしました。念のため英文原書でも見てみると、

「Although the wind had fallen, much apprehension was entertained for the safety what still remained unburnt , for owing to the damaged condition of the hose, all the fire engines had become useless, and nothing could be done to extinguish the smoulding embers.」

私の英語力はともかく、hoseが単数でfire enginesが複数なので、何本もホースがあって、破損したホースを交換しながら消火にあたったのではなく、一本か二、三本のホースが一線ずつ、複数のポンプに接続されていたのではないでしょうか。平時は公使館自体の火災のためにホースとポンプは設備されていたでしょうからホースの数も十分だったはずです。それらのホースやポンプが、この大火で英国海軍水兵やサトウらによって、消火活動に使われますが、激しい消火作業でホースが破れ、ポンプがあっても消火できない状態になったと思えます。

以上は一八六六年十一月二六日が、「日本で初めて使われた消防ホース」の最初の記述と思われるものです。
さて次の文章をお読みいただきたいと思います。

「ようやく現場に着き、延焼阻止に当たる。あまりにも火災が広範囲なため、とまどう。火勢が強く、燃えている建物に放水しても焼け石に水である。ここで延焼を阻止しなければ、と放水する。輻射熱のせいか、身体が焼けつくように熱い。何度も何度も場所を変えるせいか、ホースが裂ける。」また「妙法寺川から給水することにし、ポンプ二台を設置、ホースが不足して須磨消防署からホースを補給したが、それでも不足ぎみで、もう少し水の出るホースがあれば延焼を食い止められたのではと悔しい思いをした。」

これらの文章は「須磨消防署」からわかるように阪神・淡路大震災の記録(消防庁編)から消防団員の手記を抜粋したものです。百三十年を隔てて、サトウの係わった横浜の大火と阪神・淡路大震災の大火の現場の混乱ぶりは類似し、ホースの破損と不足の状況は酷似しています。

平時の火災では消防隊によって敷設されたホースは故意に踏みつけて破損させる者はありませんが、大震災による火災では、避難する者、家族のもとへ帰ろうとする者、それらが車を使って無理にホースの上を乗り越えればホースの破損は多くなります。たとえ破損のないホースであっても、撤収して次の火災現場へ持って行くことが難しいということは想像がつきます。いずれにしても消防隊はホースをその場に放置して次の火災現場へ転戦することになるでしょう。

いま日本消防ホース工業会ではホースの備蓄を提案しています。学校や公民館、公園など、できる限り地域住民のコミュニティーに近い保管場所に分散してホースを備蓄することを提案しています。普段から住民がホースやポンプに親しむことが重要です。

最後にもう一つ、日本で初めて消防ホースが製造されたのはサトウらが消火にあたった横浜の大火から三十七年後の一九〇三年(明治三十六年)のことで、当社の前身である日本製麻㈱大阪工場で英国製織機によって製造されました。  最初の納入場所は奇しくもサトウらが活躍した横浜に近い横須賀の日本海軍基地であったことは因縁という他ありません。

★岩波文庫「一外交官の見た明治維新」アーネスト・サトウ著 坂田精一訳
★Charles E. Tuttle CO.  [A diplomat in Japan]  by Sir Ernest Satow
★横浜市総務局編「横浜歴史年表」昭和二十八年版
★消防庁編「阪神・淡路大震災の記録 全四巻」
★古地図史料出版㈱「横浜明細全図」元治元年版