テイセン版ちょっとためになる話

『とと姉ちゃん』と帝国繊維

大正8年、日本製麻株式会社(当社の前身:現在の「帝国繊維」に至る歴史は末尾の系統図をご参照ください)に、北海道大学農学部を卒業した青年が幹部候補生として入社しました。この青年は、その年に、学生時代に北海道で知り合った宮原久子さんと結婚、翌大正9年に長女「鎭子(しずこ)さん」が誕生します。そして、その翌年、この社員は、北海道小樽の近くにある日本製麻の小沢(こざわ)工場長を命ぜられ、奥さんと長女鎭子さんを伴って北海道に赴任しています。

そう、お分かりになりましたか? NHKの朝ドラ「とと姉ちゃん」の主人公、「暮しの手帖」の創業者である「大橋鎭子」さんの「とと」こと「大橋武雄さん」の話です。テレビとは少し違いますが、「とと姉ちゃん」の「とと」は、当社の社員だったのです。

その後、大正11年には、次女「晴子さん」が生まれ、その年、「とと」は萱野(かやの)工場長として、岩見沢の近くの萱野へ赴任します。大橋鎭子さんの自伝によれば、「工場の人たちみんなにずいぶん大事にされていたような記憶があります。」「亜麻は、麦のように、どんどん大きくなります。私の背くらいになると、村の女の人たちが総出で刈り取り、それを束にして、野原に立つように、さばいて乾かします。目のとどく限り亜麻の干された原っぱ。小さいころを思い出すと、この風景が必ず目に浮かんできます。」「家の前には、私と同じか、七、八歳までの男の子、女の子七、八人が『遊ぼう』『遊ぼう』と集まってきます。その子どもグループと、野原で一日中遊ぶのです。」といった当時の生活の様子が語られています。

日本製麻株式会社 虻田亞麻工場長 技師 大橋武雄

当時、当社は、北海道全域に約60ケ所の亜麻工場をもっており、特に大正6年から14年までは北海道の亜麻事業は亜麻会社各社が作付面積拡大を競う「濫作時代」とも言われ、第一次世界大戦(欧州大戦)の影響を受けて、亜麻作未曽有の黄金時代ともいうべき盛況を呈していたようです。
昭和12年発刊された「帝国製麻30年史」によれば「明治12年に亜麻作創始以来順を追って発達を遂げてきた北海道の亜麻事業も欧州戦乱に際会するや俄然その進展の歩調を速進し、此の期を画期として実に古今未曾有の大拡張が行われた。」とあります。

大正14年、風邪をひいた「とと」の回復が捗々しくなく、「北海道でも暖かなところをと会社が考えたのでしょう」(大橋鎭子さんの自伝)、今度は、南の虻田(あぶた)工場長となって赴任しています。大橋鎮子さんの自伝では、「虻田の思い出は、さくらんぼです。社宅の庭に大きい木がありました。赤く黄色く、輝くように実りました。」といった記載があります。

この虻田では三女「芳子さん」が生まれましたが、「とと」の具合は思わしくなく、大正15年4月に肺結核と診断されたため、鎌倉の病院へ入院すべく、日本製麻を退社して東京へ帰ることとなりました。大橋鎭子さんの自伝では、「虻田の海岸から荷物とともにハシケに乗りました。製麻会社の人をはじめ、関係者の人が見送ってくれました。」との記載がありますが、残念ながら、東京に戻った「とと」は、治療の甲斐もなく、昭和5年にお亡くなりになりました。

大橋鎭子さんの自伝を読ませて頂くと、当社の社宅で生まれ育った三姉妹が、俄かに身近に感じられ、誇らしく思われます。鎭子さんは当時から常にリーダーとして社宅のほかの子供たちを率いていたようで(「大橋鎭子と花森安治」歴史読本編集部編)、そうした環境下で育った彼女らが、3人力を合わせて、その後の苦しい時代を乗り越え、「暮しの手帖」の創刊を通して女性の新たな時代を築いたことを考えますと、見事というほかありません。

最後になりましたが、現在、暮しの手帖の通販「グリーンショップ」にて、帝国繊維の麻の商品をお取扱い頂いています。大橋鎭子さんの大好きだった水玉模様のハンカチ「鎭子さんのハンカチ 水玉」や、白いリネンのハンカチ、シャツやガーゼケットなど数々の商品がございますので、ご興味のある方は、是非「グリーンショップ」Webサイトをご覧ください。

※写真はすべて横山晴子様からご提供いただきました。
※文中の引用は『「暮しの手帖」とわたし』からのものです。

(参考文献)
  暮しの手帖 別冊『しずこさん』(暮しの手帖社、2016)
  大橋鎭子『「暮しの手帖」とわたし』(暮しの手帖社、2011)
  歴史読本編集部編『大橋鎭子と花森安治 戦後日本の「くらし」を創ったふたり』(KADOKAWA、2016)

(ご参考)製麻会社合併の歴史 (帝國製麻株式会社五十年史より)

製麻会社合併の歴史